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はじめに
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19世紀後半から20世紀前半、近代医学の夜明けという時代に、内臓外科学の世界的権威と世界的には無名ながら研究熱心な眼科医とが比較的同時期に非常によく似た疾患を発見した。外科医は得意のメスさばきで次々と病変部を切除し、一方の眼科医は優れた洞察力で病態を調査していった。
ところが、発見当時の医学界におけるステイタスが反映されたのか、外科医の名前はそのまま疾患名になり、一方の眼科医は直ちには評価されなかった。 最終的には、生涯にわたって精力的にこの疾患の研究を続けた眼科医の努力が実を結び、彼の名が疾患名として医学界に採択されるのだが、完全に認知をされるまでは数十年という多大な年月を要した。眼科医の不断の努力が報われたわけであるが、疾患発見の経緯にまつわる両者を対比させると、当時の診療科の特性がよく現れていて面白い。 |
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近代外科学創成期
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今では信じられないことであるが、19世紀半ばまで、一般的な外科医の地位は医師の中でも非常に低かったという。理由は明解で、当時の外科医がある種の皮膚疾患など、外からメスが届く範囲の病変しか取り扱っていなかったからで、当然のごとく処遇は内科医よりも低かった。ある意味で、外科医の評価は、医師というよりも職人的な色合いの方が濃く、すでに広く内臓疾患を守備範囲としていた内科医と同等の地位をまだ得られていなかったのである。
この流れを大きく変えたのが、19世紀後半に活躍をしたランゲンベック(1810〜1887)と、その直弟子ビルロート(1829〜1894)という、ベルリン大学の一派である。特に、歴史的に有名なのは、1881年1月にビルロートが執刀した近代的手法としては世界初の胃癌切除術であるが、この他にも食道切除術、咽頭切除術、卵巣切除術など、前人未踏の画期的手術を次々と施行し、成功させていった。また、この際に、ビルロートは手術に関する種々の情報を蓄積し、その後の技術改良に生かしていったために、多くの先人達が犯した過ちは繰り返さなかったといわれている。 こうして19世紀後半に、外科学は一気に近代化を果たし、それまでは内科医の専門であった内臓疾患の領域にも進出していった。また、現在行われている外科手術の基礎的手技、アイデア類の多くがこの時期に確立されていったという。当然のごとく、ビルロートの下には入門志願者が殺到し、自称ビルロートの一番弟子という医師は多かったようであるが、医学史上でみると、ポーランドの外科医ミクリッツが一番弟子の有力候補ではないかと思われる。 実は、このミクリッツこそ、シェーグレン症候群の概念を最初に提唱した人物である。 |
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ミクリッツ病の発見と医学界の混乱
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ミクリッツ(1850〜1905)は、ポーランドのチェルノビッツ地方(当時、オーストリア領)に生まれ、ウィーン大学を卒業後にビルロートの門をたたいた。ビルロートからすれば、21も年下の若造であったが、ミクリッツの医術に関する優れた技能もさることながら、音楽に関する卓越した才能があったことが数多くの弟子達の中でも特別に寵愛された理由であったといわれている。ビルロート自身も、診療の傍らたしなんでいた演奏活動を通じて、かのブラームスと親交があったほど音楽に長けた才能を有していたため、ミクリッツとは公私を共にする間柄にあったのである。
こうしてビルロートの高弟となったミクリッツであるが、本業の方でも1892年に歴史的な発見を成し遂げている。それは、涙腺と唾液腺に腫脹を有する特徴的な臨床症状を呈した患者を診察し、直ちに唾液腺の腫脹を切除したことに始まる。この病変が完治していたら、ミクリッツは何も気がつかなかったのであろうが、この腫脹は切除後も再発を繰り返した。そこで、ミクリッツは病変部である唾液腺を調査し、細胞の浸潤によって唾液腺が傷害を受けていることを突き止めた。そして、タイミングがよいことに、師匠ビルロードの功績を称えるための学会が開催される予定になっていたため、いわばとっておきの研究成果として大々的に発表を行った。 ミクリッツが報告したこの疾患は、「ミクリッツ病」と命名され、医学界に認知されていった。ただし、ビルロートとミクリッツの権威にあやかってか、唾液腺の腫脹を有する症例を争うようにミクリッツ病と診断して報告する医師が続出し、ちょっとした混乱が生じたというエピソードも残されている。 ミクリッツ病の基準に関しては、当時の医学界でもたびたび話題になっていたが、1927年に一つの結論が導き出された。それは、あまりに対象が広範となっていたミクリッツ病を、明らかな原因で生じる疾患群と原因不明で生じる疾患群とに分けるというものである。すなわち、報告される症例の病態があまりに多彩なために、特定の病気という概念でひとくくりにすることは困難であるという見解に至ったのだと解釈できよう。 |
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シェーグレンの挫折
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1899年、ヘンリック・シェーグレンは、スウェーデンの首都ストックホルムから約130km西にあるコーピングという町で生まれた。1927年、ストックホルムのカロリンスカ研究所(医学校)を出た彼は、その後眼科専門医としての修行のために、同市内のセラフィルマーラサレテット病院に勤務している。ここで、有名な眼科医の娘であったマリア・ヘルグレンと出会い結婚をしているが、ここまでは一般的なエリート眼科医としての平均的な人生であった。
彼に大きな転機が訪れるのは、1930年に診察をしたある患者との出会いである。その患者は、慢性関節リウマチを6年間患っている上、ひどい眼乾燥症(ドライアイ)と口腔乾燥症(ドライマウス)に苦しめらていることをシェーグレンに訴えてきた。両症状とも非常に重く、涙が枯渇している上に唾液不足によって飲み物なしでは食物もうまく飲み込めないほどであった。また、関節痛と併せて、こうした全身に及ぶ様々な症状を有している点が、シェーグレンの興味を引いた。 眼科医という職性上、彼はまず眼球に対する調査を開始し、乾燥性の角結膜炎を発症していることを確認した。さらに、患部をフルオレセインやローズベンガル液で染色してみたたころ、乾燥状態の元凶となっている上皮欠損箇所が点状に存在していることを突きとめている。これらの染色法は、現在でも診断基準の要素として残されているもので、シェーグレンの最大の功績の一つとも言える。 この特徴的な患者を診察した後、同様の症状に苦しむ複数の患者を診察した彼は、これらの臨床経験をまとめ、「眼病変の他に唾液分泌低下、関節症状を伴う疾患で眼症状は全身疾患の部分症状である」という新しい概念を提唱した。そして、間もなくサバッツバーグ病院に移り、この疾患群に関するさらなる研究に意欲を燃やしていた。 ところで、この疾患群は、シェーグレンが臨床の最前線にいた20世紀前半に特異的に流行したわけではなく、これまで多くの医師達が診察していたのに関わらず気がつかずにいたものと考えられる。すなわち、シェーグレンは、複数の医師達がそれまでに行ってきた一例報告や見落としてきた合併症を同じ疾患群として結び付けるという画期的な発見を成し遂げたのだと言える。この疾患群の難しいところは、症状の出方によって患者の受診科がばらけてしまう上、関節症状を専門的に診る医師は合併していたかもしれない眼や口腔の乾燥症状に気がつきにくいというように診療科の専門性に潜みやすい特性を有する点であるが、シェーグレンの優れた洞察力と総合的診断力がこの壁を見事に打ち砕いたのである。 ところが、医学界の反応は冷ややかで、シェーグレンが発表したこの論文はなかなか評価をされなかった。ミクリッツが論文発表した直後に、多くの医師がこぞって追加の報告を行ったのとは実に対照的で、シェーグレンの落胆ぶりは想像に難くない。また、これに追い討ちをかけるように、この論文で学位取得を目論んでい彼は、論文が評価されなかったために講師にもなれず、大学を追われることになってしまった。 画期的な論文を発表しながら思わぬ挫折を味わったシェーグレンは、その後、スウェーデン南部の病院にて終生研究生活を送ることになるが、この疾患群に関する研究意欲は失せることなく、文字どおりライフワークとして取組んでいった。そして、非常に緩やかな速度ながら、彼が提唱した概念は医学界に浸透していくことになる。 |
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シェーグレン症候群の浸透
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1933年にシェーグレンが診察した糸状角膜炎19例の臨床的、組織学的に詳細な記載をKeratoconjunctiviti
siccaという名称で学位論文として発表し、本疾患は眼病変の他に唾液分泌低下、関節症状を伴う疾患で眼症状は全身疾患の部分症状であると述べてから、約10数年。この考えがほとんど採択されないという空白時期があったものの、彼にとっての情勢は好転しつつあった。
シェーグレンの論文に対して、グロッスは彼のドイツ語論文(1934年)の中で、糸状角膜炎に関するシェーグレンの記載が今までの中でもっとも広汎、かつ包括的な把握をしているとして、本症をシェーグレン症候群と呼ぶことを提唱した。1943年にオーストラリア(タスマニア)の眼科医ブルース・ハミルトンによってシェーグレンのドイツ語論文が正確に英訳され、シェーグレン症候群はこの英訳によって世界的に知られるようになったようである。 論文が英訳されたことで、引用回数は飛躍的に増加し、スウェーデンの片田舎での研究活動を強いられていたシェーグレンは、諸外国から講演を依頼されるなど、国際的にもその名を知られるようになった。そして、多くのリウマチ学者や米国NIH(米国国立衛生研究所)の研究グループの注目を集めるようになり、急速に研究データが蓄積されていった。 こうしたシェーグレン症候群の国際的認知とともに、ミクリッツ病との識別問題もクローズアップされ始めた。シェーグレンは、自身の発見した疾患群とミクリッツ病とは全く別の疾患であるとプライオリティーを主張したが、明らかに両者は似ており、医学界で議論が起った。一旦は広く認知をされたミクリッツ病についても、1890年代当時の発表データが全面的に再調査されるなど検討が重ねられている。 その結果、シェーグレン症候群とミクリッツ病は同じ疾患を記しているに過ぎないという結論が導き出された。さらに、ミクリッツ病はシェーグレン症候群という疾患群の一亜種(一部)に過ぎないということも明らかになった。ミクリッツ病は医学史上には残るものの、近代医学の疾患名としては、全身性(多臓器性)の疾患であることを明記したシェーグレン症候群が適切であるという判断が下されたのである。 ただし、ここで特記しておきたいのは、すでに発表から60年以上も経過していた19世紀後半におけるミクリッツのデータが再調査に耐えられたことである。これは、彼が診療・研究データを克明に残すという師匠ビルロートの教えを忠実に守ったからであると考えられ、多彩なシェーグレン症候群の疾患像を捉える一助となったことは間違いない。 |
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第1回国際シンポジウムの開催
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1986年、第1回のシェーグレン症候群国際シンポジウムが、シェーグレンが住んでいたスウェーデンのルンド町に近いコペンハーゲンで開催された。当時、87歳のシェーグレンも当然参加を予定し、特別講演という主役を務めるところであったが、残念ながら体調を崩したためにビデオでの出席となり、会場を訪れた多くの関係者達を残念がらせた。そして、このシンポジウムの開催を見届けて安心したかのように、4ヶ月後の同年9月にシェーグレンは永遠の眠りについた。彼の学位論文の世界的認知を記念するイベントと人生の終末とが同時期に重なるという、文字どおりのライフワークであったと言えよう。
しかし、シェーグレンの死後、21世紀になった現在でもシェーグレン症候群の医学史は続いている。何故なら、この疾患は原因が明確になっていないことや有効な治療法がまだ確立されていない上、診断がなされていない潜在的患者も相当いることが推定されるなど、シェーグレン症候群の本格的全容解明に向けた医学史第二章は、まだ始まったばかりであるからだ。 |
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<完>
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